019 プロダクト作家
7月からひっそりとはじめた陶芸修行がすこしずつ形になりはじめている。前からやってみたかったところ、金沢の拠点・キタイッサカの同居人が講師をしている陶芸教室に入れることになったので、金沢にいる間は週5くらいで通っている。日数でいえばそこそこガチ。12月下旬にやるおうちイベント「キタイッサカの土間〜ケット」で一応の初お披露目というはこびである。
陶芸は4、5年前から「個人的脱サラしてやりたい個人事業ランキング」上位に食い込むくらいには興味があって、機会があればやりたいと思っていたので今の状況はもろもろ幸運だった。なんか性に合いそうだなと思っていて、物理的な素材を扱うこと、作業工程が段階的なところ、最終的な仕上がりが機械(窯)まかせなところなど、手と頭を同時にうごかすのが苦手なので、淡々とできそうなかんじがよくて、実際やってみたらその通りだった。飽き性としては結構いいハマり具合(熱中しすぎず、飽きすぎず)で、いまのところちょうどいいペース。
そんなかんじでまた「なにをやっていきたいのかわからない人」と思われるような要因を一個増やしたのですが、最近「プロダクト作家」という謎の肩書きを思いついた。プロダクトという語が(僕にとって)ほどよく曖昧でいいなというのと、ふだんから製品クオリティ的な判断でものをつくっている感じがあって、全部ひっくるめて「いろんなプロダクトをつくっているんですよ」と言えればちょうどいいなという魂胆。いまのところ発表している作品は絵と動画とゲームなので、これらの価値はソフトウェア的、つまりそれを映す媒体に(価値が)依存しにくく、映される内容が重視されがちだと思うのだけど、一方のリソグラフや陶芸はハードウェア的で、物理媒体に製造的な良し悪しが宿るためにその品質が問われる。僕が意識している作品の質(感)の問題とあいまって、ここにある種の過剰な責任を負うことが作品性(人がそれを作品と呼びたくなるような雰囲気)の一因になるのでは、という思いがずっとあった。陶芸というハード寄りなものの比重が大きくなるほど、ソフト的なものでもハード的な判断でつくれるようになっていく予感がある。最終的に食器もゲームも同じレベルでプロダクト作品と言えるようになれたらいいなと思う。
ただまあ、表立って名乗るもんかというとまだ微妙かな…。
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